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BIG WAVEの活躍が熊本へ届け!

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大好きなJIN

JINが「待ってるぜ!」っと言うので、またまた観劇に行かないではいられませんよ!!

いつも愛してやまないハウステンボス歌劇団さんの、チーム フラワーの公演「BIG WAVE”~不死鳥海賊団 ブルーポセイドンの海を越えて~」が大好きです!!

チームのトップ男役さんの伊織はやと様が演じる主人公のJINは、不死鳥海賊団のキャプテン。個性的なキャラクターの仲間たちと共にサンライズ号の帆を上げて、スペクタクルな冒険物語が始まる。

キャプテンJINは伊織様と同じく、懐が深くて、ちょっとユーモアもあり正義感びっしりの頼れる男ですよ!


このブロマイドの写真は、物語の中でJINが今は亡き恋人の“はるか”に想いを寄せる、とても切ないシーンなのです。


「BIG WAVE」を観た後は娘と、あるいは友達たちと必ずと言っていいくらいに毎回BIG WAVE談義だったり、JIN談義だったりになるのですが、先日は『“はるか”は日本人の名前でしょうから、ひょっとしてJINも日本人かなぁ?』っという話になり、そこのところを出待ちで伊織様にお尋ねしてみましたよ(笑)。

すると、こんなお応えが…
伊織様…『そうです、“はるか”は日本人ですよ。』
私…『ん~む、ではでは、JINは日本人ですか?』
伊織様…『いえ、 JINは日本人ではなくて…』
私…『あっらぁ~、日本人じゃないんですねぇ~!! (ではでは、JINは何人??)ルキアやカイトやチャンドラたちも、世界中からJINが呼び集めた大切な仲間たちなんですよね!!』



こんなやりとりをさせて頂いて、またまた楽しい空想が広がりましたよ!
観れば観るほどに魅力的な「BIG WAVE」~不死鳥海賊団 ブルーポセイドンの海を越えて~の公演です。


JIN…
人は誰でも傷ついている
でも、もう1回立ち上がったやつには道が見えるんだよ!
俺にとってはそれが海だったんだ
俺は、いや俺たちは、その道を冒険するんだよ~!!
分かったかぁ~野郎ども☆☆



伊織様より、「地震で大変な思いをされている熊本のお友達の方々が元気になって、またハウステンボス歌劇団の公演を見に来て頂きたいですね!」と言っていただきました。
心から感謝しています。

*JINのお話と写真の掲載にも、伊織様より了解を頂いて載せています。

空想の遊びでぇ〜ッス!

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空想の遊びでぇ~ッス!

いつもいつも、私のつたないブログにお立ち寄り頂いてる方々に心から感謝しています、ありがとうございます!

今日はちょっと空想の遊びをしてみますね✌では、では、さっそく行きますよ!!

あなたが森の中に入って行きました。
いちばん最初に出会った動物はなんですか?人以外の動物で思い浮かべてみてね!!

もう少し森の中へと入って行きました。あなたが2番目に出会った動物は何でしょうか?思い浮かべてね!!


さぁ~今度は森の中に小屋があります。あなたはその小屋の中に入って行きました。すると、中にはテーブルがあり、その上には水差しが置いてありますよ! そしてその水差しに水が入っているのですが、その水の分量がどのくらい入っているとあなたは思いますか?空想して下さいね!!
例えば水差しの1分目なのか、3分目位か、水差しの半分位に水が入っているのか?
8分目か、満杯に溢れるくらいに水が入っていると思うのか、自由に思い浮かべてくださいね!!


さてさて、最後です。
あなたは小屋から外へ出ることにします。ところがあなたが出るときに水差しに手が触れて、テーブルから落としてしまい水差しが割れてしまいました。
さぁ~、あなたは小屋から出たいのですが、落とした水差しをあなたはどぉ~処理しますか?
自分だったら、どのように処理をして小屋から出るのかを思い浮かべて下さいね!!

空想の遊びはこれでオシマイですょ!
*答えは次回、次のページでね!!


クックッくぅ~ッ✌
今日、ハウステンボス歌劇団さんのチームフラワーの公演を観劇してきました。そして公演後の出待ちでトップさんのお2人に、この空想の遊びをさせて頂きましたよ!!



伊織様も、さえ様も、とっても優しい笑顔できちんと答えて下さり心から感謝です。
伊織様は最初の動物がうさぎ。2番目の動物が熊と鹿が同時に浮かんできたとのお話でした。
さえ様は最初の動物がリス。2番目の動物がロバとのお答えでしたよ!!

お2人に「空想の遊びの結果は、ブログで!!」とお話したら、「わぁ~、楽しみにしてますね」っと言って下さり、とっても楽しい出待ちでした♪♪

空想の遊びの答えを…

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前のページで皆さんにご紹介しました空想の遊び…

この遊びは、とりとめのない私の思いつき…っではなくて、なくて…、もう何年も前になりますが、私が独身の頃にボランティアの講習会に参加した折に、講師の先生より教えて頂いた遊びなんですよ!

大勢の人が集まったときにも、少人数集まったときにも、そしてひとりのときでも出来るという遊びです。それに、空想の中なので誰もキズつけないで楽しめる遊びなんですよ!!
そのような遊びがいくつかある中のひとつを今回ご紹介しました。

ブログを見に来て下さった皆さんがコメントに書いて下さり、心から感謝しています。ありがとうございます!!


では、では、答えを私の場合を1例に書いてみますね。

*森の中に進んで行って、まず最初に出会った動物は…“自分”を意味していますよ!
私は馬を思い浮かべました。どんな馬かというと、どこにも繋がれていない、草原を自由に駆け回る馬です!! 私はとにかく自由が好きなので馬しか思い浮かばないんです。


*森の中をもっと進んで行って2番目に出会った動物はウサギでした。私はなぜかウサギくらいの小動物しか思い浮かばなくて…。2番目に出会う動物は何を意味するかというと、これは自分の“パートナー”を意味するそうなのです!!
今の自分のパートナーだったり、これからパートナーを見つける人は、自分がパートナーをどぉ~見るか、どぉ~見ているか?が表れるとのことです。
ちなみに、ひとつの動物を思い浮かべても、人それぞれ持つイメージが違うので、いろんな空想の遊びをしてもらえると嬉しいです。


*次に森の中の小屋に入って行って、そこにあった水差しの中に水がどのくらい入っているのかを空想する遊びです。私の場合は水は半分位入っていると思います。



さて、これは何を意味しているかというと、自分がこれまで生きてきた人生に、今どのくらいの“満足感”をもっているか?を表しています。
私の場合は半分満足しているけれども、まだまだあと半分は満足していない!?…のかもしれません。


では最後の問いですよ。
*その小屋から出ようとしたときに手が水差しに触れて、テーブルから床に水差しが落ちて割れてしまいました。
さぁ~、自分はそこでどのような処理をしますか?の問いかけです。私の場合は、とにかく近くにある『ほうき』のような道具で割れた水差しをかき集め、一応片付ける意思はありました!の気持ちを分かってもらうためにかき集めたガラスの破片を寄せて、更にその上にほうきを乗せてから小屋を出ると思い浮かべました。

さぁ~て、コメントに書いて下さってる皆さんは、とても丁寧な方々、かたやそのままにして小屋を出る方などがあり、とても情景がわかり易くて面白かったですよ。これは何を意味しているかというと、自分の周りに問題が起きたときに、どのような“処理”をするのか?を表していますよ。人それぞれの対処の方法が垣間見えて楽しいですよね!!


この空想の遊びの面白いところは、答えが分かった後に又考えてみても、そして何年か経って思い出して空想してみても、自分が思い浮かべる動物やイメージは、さほど変わらないというところが又面白いんですよ☆☆

長々とお読みくださいました方々、お付き合い下さり心から感謝です、ありがとうございます!!

JINと“はるか”に想いを寄せて!!

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JINと“はるか”に想いを寄せて!!

愛してやまないハウステンボス歌劇団さん、チーム フラワーの公演、「BIG  WAVE」~不死鳥海賊団ブルーポセイドンの海を越えて~を観るたびに幸せの風を感じ、勇気と感動を頂いています。

伊織はやと様はじめ、深佳さえ様、


そしてチーム フラワーのメンバーさんがステージいっぱいにパワー全開で演じていらっしゃる姿をいつも眩しく観ている私です!!


ところで、公演当初から気になっているのが“はるか”のこと☆
公演中にも、パンフレットにも登場することはない人物なのですが、なぜか気になる存在なのです。
チーム フラワーのファンの方でも“はるか”が気になると言うファンはいませんが(笑)、今日は勝手に妄想の世界を書かせて頂きます。『そんなぁ~プンプンッ』と怒る方は、どぉ~かスルーして下さいね。


「BIG  WAVE」は、JINが世界中から自分の目に叶った仲間を呼び寄せて、もう一度立ち上がろうとするミュージカルですが、公演の2景で伊織様演じる主人公JINには、過去にとても哀しい出来事があったのだろうと想像させる場面があります。劇中でJINに向って、クルーのひとりであるボニータ姉さんが言うのです。
 
私はあんたのことが心配だよ
あんなことがあったんだ
あんたは船を降りても仕方がないと思ってた、なのに、また海に出るなんてさぁ~JIN…


これを聞いたJINは

大丈夫だよ、俺は
もう一回、生きてみせるさ
そのために海に出たんだ
そうだろう“はるか”…  



☆ここからが私の空想の世界ですょ!
JINは数年前、日本の近くを航海した際、日本にいる最愛の恋人“はるか”を船に呼び寄せて、久しぶりに2人だけのときを楽しんでいた。

はるか…JIN、お茶を頂いたから飲んで     みる?

JIN…あぁ~、もらおうかな!

はるか…あら、私ったらごめんなさい。JINはコーヒーしか飲めなかったわよね!

JIN…はるかが入れてくれるお茶なら、なんでもきっと美味しいよ!!

はるか…わぁ~、ありがとう♡JIN

と、こんなたわいない会話と、はるかの可愛いまでの微笑みに心から幸せを感じるJINであった。

しかし、そんな時間も束の間、クルーたちを乗せた船が突然の横波を受けて大きく傾いてしまう。
JINは、はるかに「絶対にこの部屋から出るんじゃないぞ!」と言って舵を戻すべく飛び出して行った。

はるかはJINの言いつけを守り部屋にいようとしたが、どうしてもJINのことが心配になり後を追って部屋を出てしまう。しかし傾いた船の甲板に全く不慣れなはるかは足を滑らせ、船から海へと落ちてしまう。それを少し離れたところから見たJINは、はるかを助けるために海に飛び込むのであった。

しかし、はるかは何処にも見つからない。狂ったように何度も何度も必死に海に潜り、はるかを探すJIN。後から飛び込んだクルーたちに力無く引き上げられたJINであった。

こんな辛い過去を背負ったまま、数年後、JINは新たに仲間を集めて航海に出ることにした。
と、そこで見たものはクリスタニア島に住むイザベリータ王女。この王女がはるかにうり二つの女性だったのだ!
JINは、訳あって呪いにかけられた王女をひと目見たときに「はるか!!」と叫びそうになっていた。(…っと、ここまでが私の妄想です)


公演の終盤、JINはイザベリータ王女の呪いを解くために奮闘し無事に王女を救い出す。呪いから救われた王女とJINが奏でるデュエットがとても素晴らしくて、時を止めてくれる

♪♪
その笑顔   俺の心を溶かす
思い出す   愛しい人
幸せだった  あの頃を
君の面影追いかけては  振りほどき
哀しみの海に  おぼれていった  あの頃

君に  貴方に  出会えた奇跡
星降る夜に  神に誓う
もう一度  歩こう
もう一度  微笑んで
もう一度  恋をする
湧き上がる  この情熱信じて





*“はるか”のお話を書かせて頂くにあたっては、伊織様にお尋ねして快く了解を頂きブログに掲載させて頂きました。伊織様に感謝申し上げます。


いつも感じるのは、チーム フラワーのメンバー全員の方々の、ステージにかける真っ直ぐな思いと熱い熱いパワーです。これからもハウステンボス歌劇団さんの活躍を応援しています。

弟子の話と名古屋帯の七変化!

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今日は、弟子には内緒で(笑)我が家に来ている“着付けの弟子”の話を書いてみようかと…。
普通は着付けの“生徒”っと言うのですが、ひとり来ているので弟子と呼んでいます(笑)。
私は基本的には生徒に教えるのでなく、自分が外に出て着付けの現場で仕事をしているのですが…

以前にお客様として着付けをした30代の女性が、私に「ぜひとも着付けを教えて欲しい」と言って来たのが始まりで、我が家でお稽古をするようになりました。

着付けと言っても、自分が着られる技術ではなくて、お客様に着付けをするプロとしての養成なのです。なので、のんびり、のほほんと見える若い彼女が家に1人で来て教わっても楽しみ程度で、きっと途中で辞めるに違いないと私は思っていたのですが、なんと、お稽古を始めてから2年目になろうとしています。
私が彼女に対して「技術を覚えても最終的にプロとして仕事に就かなかったら、私に払ってるお稽古代が勿体ないから、いつでも辞めていいのよ!」と言ってきたのですが、彼女は雨の日も遠くから通って来るので、私は『あらまぁ~』という感じです。
最近はいろいろと質問してくるようになった彼女のことが可愛い弟子に思えてきました。

ところで、着付けの仕事も他の仕事と同じく、ド根性と探究心と諦めない努力と、何があっても『着物が好きだ』という気持ちがいちばん大事だと私は思っています。
彼女はまだ未熟なので仕事には就けないですが、来年の成人式の着付けを出来るようにとの目標をもって頑張っています。
これも何かの縁かもしれないと思い、私は他ではとても教えてもらわないような技術のコツのコツを彼女に教えても良いかな!?なんて思っています。

人に教えるということは簡単なようでとても難しくて、自分でも基本技術の再確認になるので、若い弟子のお陰で私もすごく勉強になっています。


写真は、先日、稽古でやりました名古屋帯の変わり太鼓です。ひとつのヒダでの七変化が楽しめます。
名古屋帯というのは、普段着やちょっとしたお出かけ程度に結ぶ帯で、正装の着物に合わせる袋帯よりも少し短いものを言います。
普段着の着物に気軽に結べる帯ですが、結び方で可愛くなったり、粋になったり…とても楽しいものですよ!!


基本的なお太鼓結び



お太鼓の中にヒダをとった手先を入れて、ふっくら感を出します



リボンのヒダをお太鼓の上に出します



お太鼓の形を変化させます



花を作って、お太鼓の横に添わせます





帯の色が変わると雰囲気もだいぶ違って見えます



前の仕上げの1例です



*1本の帯でも結び方によっていろんな表情を出してくれるので、帯には不思議な魅力があります!!

涼しげに見せる、魅せる!!

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涼しげに見せる、魅せる!!

夏の着物のお話を…
夏、確かに暑いですよね。
「着物なんて暑くて着られやしない」…なんて、即、考えがマイナスの方向へいってしまいますが、、

でもでも最近、ゆかたを、とくに若い女性の方たちが楽しんで着てくださるようになり私は嬉しく思っています。
この“ゆかた”は真夏にしか着られないものですよね。 そして、着ている方を見たり自分が羽織ってみるとよく分かるのですが、真夏の暑さにぴったりと合うものなのです。

夏の着物にはゆかたの他にもいろいろな着物があります。素材的には綿や麻、シルクまで、それはそれはうっとりするほどの素敵な夏着物がありますよ!!





ではなぜ夏にも着物を着るのか分かりますか? 真夏に着る着物というものは、それを見た人が涼し~くなる、涼感を与えるために着ると私は思っています。
本人は確かに暑いのですが、夏の着物は素材的にも機能的にも、また色彩や模様にも沢山の工夫がされていて、汗を吸い取ってくれたり熱気を逃がしてくれたり、身体を覆っているのに人目には涼しく感じるという優れものなんですよ!!



そして、いちばん大切なのは人目に“涼しく見えるように着ること”が大前提なのです。ですから、ゆかたや夏の着物の着付けには、私は秋や冬に着付けする着物よりも、更にもう一つ自分に“気合い”を入れてお客様に着付けをしています。見る人のことを考えて気遣いをするかしないかで、夏の着物姿が暑苦しく見えたり、涼しげに見えたりするものなのです。

涼感を与えてくれる小物アイテムとしては、帯びあげ、帯締め、半襟などを夏仕様に変更します。





持つものとしては『日傘』がありますが、この日傘、元々は夏の着物姿に合わせて持つものだったのですよ!




こちらは夏の道行き(みちゆき)コートです。


夏着物でも冬と同じようにコートがあり、超贅沢な羽織ものです。素材は絽とか紗などと呼ばれる生地で作られていて、中の着物の柄が見える、いわばシースルー感を楽しみますよ。

これから街で、ゆかたや夏着物を目にすることがありましたら、涼しい風が感じられるかどぉ~か、ちょっとだけ足を止めて見て下さい。風を感じたら、その人の着付けが美しいということなんですよ!!

「BIG WAVE」150回突破ぁ〜!!

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「BIG WAVE」公演、伊織様のJIN 150回突破ぁ~ッデス!!

ハウステンボス歌劇団 チーム フラワーの公演「BIG WAVE」~不死鳥海賊団 ブルーポセイドンの海を越えて~…
男役トップの伊織はやと様がJINを演じていらっしゃいますが、先日の公演回数が150回を突破した日にお祝いに駆けつけました!!



これまで、節目にお話させて頂いていますが…
50回のときには、伊織様が『わぁ~ッ!! もう50回、そんなになりますか?』っと驚いていらして。
100回のときには、『100回になるんですね~!』とおっしゃって感慨深い感じで。
そして150回では『まだまだバージョンアップして頑張ります!』というお話を聞かせて頂きました。

何度、観させて頂いても飽きない「BIG WAVE」公演、飽きるどころか更にいろいろな場面で新しい発見があり、最近では涙が出てくるようにまでなっています。

以前、伊織様に、チーム フラワーのトップとしての心情をお伺いしたことがあります。そのときに伊織様が「いつも自分は舞台のセンターに立たせて頂いているけれども、メンバーのみんながいるからこそのトップなのです。だからいつもメンバーのみんなに感謝をしていますよ!!」とのコメントを頂きました。私はこのときの伊織様の言葉がずっと心に残っています。

50回であろうと、200回になろうと、チームの皆さんの力が紡ぎあって1回1回の素晴らしいステージが創られるのでしょうね!!

ブロマイドより…




















*大好きなJINの台詞を聞いて、いつも元気を頂いています。

☆冒険だよ、冒険!
人はみんなキズついてる
でも、立ち上がった奴には道が見えるんだよ、それが俺にとっては海だったんだ。
俺は、いや俺達は、その道を冒険するんだよ~!分かったか、野郎ども!!

☆俺達のミュージカルを最後まで見てくれてサンキューなぁ~、みんな楽しんでくれたか?すげぇ~拍手!! メンバー全員大喜びだぜ!
俺達は不死鳥海賊団、まだ海に出たばかりのルーキーだけどさ、どんなときも立ち上がって飛び立つんだ。そしていつか、デカイ男になってイザベリータを迎えに行く!!
また俺達の活躍、見に来てくれよなッ、待ってるぜ♡♡♡



お写真は伊織様にご了解を頂いて、載せさせていただきました。伊織様に心から感謝です。

父の日に…

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父の日に…

私の心の中で、“情けのある天使”が私にいつも話しかけてくる。

天使「亡くなった人でも、生きてる人でも、どっちでもいいから、ひとり会わせてあげるよ!!と言ったら誰に会いたい?」

私「父です、父に会いたい!」

天使「その理由は?」

私「私が父の子供として、なんにも、なんにも、親孝行していないまんま…もうだいぶ以前になるけれど、父が亡くなってしまったから!!」

天使「それだけ?」

私「いえ、それだけではないのよ。父はすっごくすっごくダンディーだったんです。大正生まれの人には珍しく長身の172cmあって、足が長くてスタイルが良い、とてもかっこいい父だったから、今一緒に父と腕を組んで歩きたいのよ!!」
…なんてことを、妄想好きの私は最近よく考えています。

ありがたい事に、元気で生きてくれている母と話をするたびに、在りし日の父を思い出しては、『私は、この両親の子供に生まれて良かったなぁ~、産んでもらって本当に幸せだなぁ!!』といつも思っています。

私は父から1回も怒られたことがないのです。“目の中に入れても痛くない”という言葉がぴったり当てはまるように、私が何をしても笑って見ていてくれる父でした。

両親の最初の子供が女の子で、母のお腹の中にちゃんと臨月までいてくれたらしいのですが、産まれて3日で自然死したとのこと。だから、私が産まれたときには余計に、『とにかく、どんなでも良いから生きてくれ!』との願いが強かったそうです。

私が二十歳の頃には、友人たちとの集まりで夜遅くなったりすると、父は私の帰宅時間よりも早々に家の前に立って、暗い中で懐中電灯を回して出迎えてくれました(笑)。
今思うと、本当に父の愛情いっぱいに育てられたんだなと感じます。私は若い頃は父の話し相手など、あまりしてなかったなぁと今更ながら後悔しています。
今となっては、叶わないことだけれども、居てくれたならば、一緒に出かけたり語り合ったりしたいなとつくづく思います。亡くなった歳の83歳のままの父が、私の心の中にずっといてくれています。





花が大好きだった父、いま紫陽花の花で埋め尽くされているハウステンボスを父と腕を組んで歩いてみたいなと思います。

私のこの拙いブログを読みに来て下さる方々に、いつも感謝しています。あなたが今いちばん会いたい人は、どなたでしょうか?初恋の人かな?それとも成長するために糧となった恩師でしょうか?

優しい人たち!

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ハウステンボス歌劇団、チームフラワーの公演「BIG WAVE」の中で、チームトップの伊織はやと様演じる主人公JINが、呪いにかけられていた王女イザベリータに向かって『周りを見てみろよ!…乗り越えろよ、あんたの周りにいる優しい人たちと!』と言うところがあるのですが…

先日、ハウステンボスの園内を歩きながら『あぁ~、いるな、いる、いる!! ハウステンボスの中に、こんなにも多くの優しい人たちがいるではないかぁ~!!』と思いましたよ。
あげて見ると…
先ず筆頭はやっぱり伊織はやと様です。


いつもどんなときでも変わらない対応と優しい笑顔を見せて下さり、お客様は魅了されて元気を頂いています。それと同時に私は伊織様から多くのことを学ばせて頂いているような気がします。

そして、私たちファンに沢山のパワーを下さっている伊織様ですが、ご自身は何でエネルギーを充電していらっしゃるのかしら?…なぁ~んて、伊織様の前では“子供”みたいなことを考えてしまう私です(笑)。
あっちゃ~!! 伊織様のことを書くと何ページにもなりそうなので、次の優しい人をあげましょう。


次はチームフラワーの女役トップの深佳さえ様です。


さえさんも伊織様と同じく、常に穏やかで優しい笑顔をお客様と私たちファンに見せて下さいます。いつ見ても、ステージで安定したMAXの演技を届けてくださる さえ様です。どれだけのお稽古を積み重ねて、これまで歩んで来られたのだろうと思わされます。
さえさんを慕い目標となさっていらっしゃるチームフラワーの女役の皆さんも、とても優しい方々ばかりです。可愛くって、それでいてステージではエネルギッシュで常に前へ進化なさっています!



次はハウステンボス所属アーティストの“みっちぃ~”ですよ。



みっちぃ~はいつも変わらね歌唱力に加えて、優しい人柄が分かるMCでライブを繰り広げていて、ハウステンボス内外で活動しています♪♪
テーマパークに所属するアーティストは珍しいとのことで、みっちぃ~はライブ以外のときには園内のスタッフとしてのお仕事もしています。お仕事中のみっちぃ~も優しくって、とってもカッコイイーんです。パレードの乗り物やダンサーさんを安全に誘導しているときも、お客さんが「みっちぃ~!」と声をかけると元気にハイタッチに来てくれますよ!!(﹡ˆ﹀ˆ﹡)♡


そして、次の優しい人、いえ優しい所に先日、遭遇しました! それはハウステンボスに隣接するホテル日航ハウステンボスです。


お昼にランチを頂きに行ったら、小学生の団体さんがたくさん入ってて、一度は「満席で申し訳ありません」と断られたのですが、男性のスタッフさんが「しばらくお待ち頂けたら、お席を作ります」と言って下さり間もなく入って…たくさんの小学生の中に混ざって私もランチバイキングを頂きました。
お友達に伝えたら『わぁー、やぎやんさんが小学生の中でランチバイキングって…、想像しただけで面白~い(笑)』というメールを頂きましたよ!

そして、ランチを終えて出るときにスタッフさんが「本日は賑やかで大変申し訳ありませんでした。召し上がれましたでしょうか?」と優しく言って下さりとても感じが良くて満足しました。そして更に続けてスタッフさんがおっしゃるには「熊本市からの小学生の方々なんですよ。地震の影響があり熊本県内ではなかなか学外に行かれないそうで、この時期になってようやく動けるようになり、ハウステンボスに子供達を連れて来られたのだそうです」とのお話をして下さいました。
私はそのお話に感動して「そうなんですね、ぜひとも受け入れてあげたいですよね~!!」とお伝えしてホテルを後にしました。素敵なお話が聞けたお陰で賑やかな中でのランチがとても楽しい思い出になりました。

母の誕生日!!

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母の誕生日!!

今日、7月1日は母の誕生日。なんと大正12年生まれの93歳です。娘の私が母を誉めるのはおかしいですが、とにかく破格な母なので少々お許しを…。

母は長年に渡り小学校の先生をしていました。昔の先生はどの教科も生徒たちに教え、更に学校給食のお世話もしていたので忙しく、家に帰っても仕事をしていた母でした。
昔の先生はテスト問題も自分で作り印刷までして、そして答え合わせまで…。学期末は通知表書き等など…。毎日フル回転で働く母の姿を頼もしく、そしてちょっぴり、いえ、かなり淋しく見ていた私でした。

でも淋しい気持ちばかりではなくて、昔から大いに母を尊敬しています。
母は22歳のときに教員として小学校に勤務している最中、長崎の原爆投下の恐ろしさをつぶさに見てきた人なのです。よって平和の有り難さを痛感し、常に私や孫達に当時の惨状を語ってくれる、生き字引のような人です。
原爆の日には母いわく『学校を守るために』登校していて、昭和20年8月9日11時に畑に野菜を取りに行く先生の組と学校に残る組とに別れて作業をしていて、たまたま母は残る組だったので、原爆投下の直前に異常な気配を感じて、とっさに学校の床下に掘ってある防空壕の中に飛び込んで、どこもケガなく助かった人なのです。 残念なことに畑作業に行った先生方は亡くなったという話しを何度となく聞いてきました。

母は強くて頭が良くて、和裁、料理、文字も達筆です。人付き合いも上手くて、母が出来ないことは無いのではないかと思います。


つい先日、私の念願だった『母と一緒にハウステンボス歌劇団さんの公演を観る』という夢を叶えることが出来ました。
母はまだ歩けるのですが、さすがに用心のためにハウステンボスでは車椅子を使い園内を回って紫陽花を楽しんで、さぁ~いよいよ歌劇団さんの公演を観る機会に恵まれた。
一緒に行ってサポートしてくれた娘が用意したペンライトを母とフリフリしながら観ていると、娘が感動したらしくウルウルなっていました。本当に素敵なひとときでした。

公演の後、伊織様に母を紹介することが出来て、伊織様よりとても優しくお声をかけて頂きました。


伊織様に母と握手をしてもらったときには、私が『スーパーおばあちゃんなので、母のパワーも感じていただけると嬉しいです!』とお話しました。伊織様が素敵な笑顔で握手して下さって幸せな気持ちになりました。
母が『歌劇団の方々、みんな若くて可愛いねぇ~、元気をもらったよ!!』と言ってくれました。

そしてその直後、私が伊織様に少しお話をすることを思い出し、母に『ちょっと待っててね』と言って、ほんの少しばかり母から離れたところで伊織様とお話させて頂いて、そして母の車椅子のところに戻って見たら、なっ、なんと、歌劇団公演のホールから出て来られた女性の方が、母の頭上に日傘をさして下さっているではないですか!!
私はその光景に嬉しいやらびっくりするやらで、『なんて優しい方がいらっしゃるんでしょう!歌劇団のファンの方々は本当に優しい人が多いんだなぁ~!!』とつくづく感じました。
もしも自分だったら、そこまで出来るだろうか!?…なんて感じると同時に、この優しい1日をいつまでも覚えていようと思いました。


さて、前の記事に戻ることになりますが、母の貴重な被爆体験記を10年くらい前より母が自ら書いてためているものがあるので、長崎の平和の日の前に長崎平和記念館の資料館に寄贈することにしました。

70年前の生活なども書いてあるので、とくに小学生の子供さん方に読んでいただけると嬉しいなぁと思っています。

母の『被爆体験記』

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私の母の『被爆体験記』より

長崎に原爆が投下されて、戦争が終わり、今年の8月で71年が経ちます。
私の母が元気なうちに母の書いた『被爆体験記』を長崎市の原爆資料館に寄贈出来ればと思い、つい先日、出向いて受理して頂きました。









戦争、原爆投下、防空壕、B29…等などの言葉は、私たち戦後に生まれた世代の人も見聞きして知ってはいるけれども、実際の生活はどのようなものだったのか分からないですね。
私には有り難いことに、当時のことを話してくれる母がいるので、母が実際に体験した戦火と原爆投下時の話を聞くことが出来ています。この貴重な『私の被爆体験記』より抜粋してご紹介したいと思います。読んで下さる方の心に1行でも残して頂ければ幸いです。


『私の被爆体験記』より

私は大正12年生まれ、現在93歳です。これまでにはいろいろなことが多すぎて何から書いたら良いのか迷いますが、やはり忘れることが出来ないのは戦争と長崎への原爆投下のことです。
私が教員として長崎市の小学校に赴任した昭和16年12月に米国を相手に太平洋戦争が勃発した。
そもそも、それ以前には日中事変が起こり若い男性には召集令状の赤紙がきて、戦地へ出て行く人達を日の丸の小旗を振って駅まで見送ることが次第に頻繁になった。

その頃は“千人針”といって、木綿の白い布に女の人たちが心を込めて1針づつ縫ったのを、戦地へ行く人達の腹巻きにすると敵の弾にあたらないと言って、必ず持たせたものだった。
家族は食品や衣類、写真などを詰めて慰問袋を作り、戦地の肉親のもとへ送ってもらったり、学校の生徒は慰問の手紙を書いて送ったりしていた。
次第に世の中は戦争の気配が酷なり、太平洋戦争が始まった。人々もいよいよくるものが来たという覚悟を決めたのだった。
日本の勝利を、ラジオや新聞や号外などで知らされ国民は奮起させられた。若い男の人は次々と戦地へ召集され、中には戦死の報があり家族の悲しみも数多く見聞きしたが、悲しくても人前では涙を見せないような強い母親像が育っていた。

…続く…

母の『被爆体験記』より

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母の『被爆体験記』より



…戦争の色濃く…
戦争の色濃くなってくると、庶民の生活は日増しに窮屈な状態になっていった。若い男性の力は不足し工場は軍需工場と変わり、生活用品の不足が日に日に目立ってきた。まず衣類では布地や反物が少なくなり点数制になった。子供が多い家庭は比較的必要の少ない高齢の人から点数を分けてもらったりして助け合った。

戦争が激しくなるにつれて、まず自分の身を守ることが大事になり、大人から子供までいつも防空頭巾をつけるようになった。頭を覆うものを手放せなかったが、それが原爆落下のときにどれくらいの役に立ったのだろうか。

日常の服装といえば、男性は国民服、足にはゲートルを巻き、運動靴か地下足袋を履き、女性は祖母や母の地味な着物をモンペに作り替えて、それが日常着だった。着替えは少なくなり洗濯するにも石鹸が不足した。鰯の油などの石鹸や木炭の汁で洗うなどしていた。家庭の風呂はほとんどなくて、たまに銭湯に行くとシラミをもらってきたりした。
学童の運動靴も店にはなくて学校に配給され、それが貴重なものだった。衣類は辛抱出来るけれど、食料品の不足は大変なものだった。



…貧窮する生活物資…
毎日の主食である米は配給制度となり、その量も次第に減ってきた。代用食の芋の配給があるときは良い方で、大豆の油をしぼった大豆かすを固めたものを米と混ぜて炊いたが、とても美味しいものではなかった。とうもろこしの粉、ひじき、乾燥したキャベツ、大根葉なども配給があった。
当時は家族大勢で暮らしているのが普通だったので、食料の確保には苦労があった。食べる物が次第に姿を消し、手に入りにくくなっていき、知人を頼り、農家に買い出しに出かけたりした。

小学校でも空き地を借りて芋や西瓜作りをした。児童数が多くて、その頃はひとつの小学校に1000人以上の生徒がいたと思う。収穫出来た芋を分配したときの生徒の嬉しそうな顔が今でも忘れられない。砂糖などは姿を消し、長い間お目にかからなくなった。
『欲しがりません、勝つまでは』の標語が全国に広がり、子供にもその言葉が浸透し、我慢に我慢をしていたのがいじらしかった。

当時は『産めよ、増やせよ』の政策で、たくさんの子供を産んでいたので家族が多く、老人も子供も助け合って暮らしていた。
特別な家庭を除いては贅沢な家などなく、薪を採りに行ったり、もらい湯をしたり、それぞれのところで手分けして頑張らねば生きていけなかった。

母の『被爆体験記』より

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つい先日、母の『被爆体験記』を寄贈していた長崎市の原爆資料館より連絡があり、「被爆体験記を各関係する団体や協会やメディア機関などへ公開しても良いでしょうか?」との問い合わせがありました。私の母が見てきた70年前の時代や、生活が困難な状況下を生き抜いてきた先人たちの様子を、今を生きる若い方たちに少しでも感じとって頂けたらという思いで冊子のかたちで寄贈したので、「是非お役に立てて頂きたいです」とお返事致しました。



母の『被爆体験記』より

…空襲警報の日々…
やがて日本の本土に敵の飛行機が来て爆弾を落とすという事態になってきた。そこで敵の焼夷弾による大火災を防ぐために、学校の木造校舎の天井板外しが始まった。天井が高いため男性職員が作業をしたが、その時に落ちるゴミがひどかったことを覚えている。外した板も薪代わりに使用された。



いよいよ戦争が激しくなり、戦地の場所によっては日本軍隊全員玉砕の報さえ聞かれるようになった。次は日本の国土が空襲される状況へと変わっていった。そのため各職場や学校や隣組でも、焼夷弾を消すためにバケツリレーの訓練があちこちで実施されたり、敵兵を攻撃しようと竹槍訓練まで行われた。そしていたるところに防空壕を掘り、皆が真剣に命を守った。
家の床下に穴を作り、学校もコンクリート校舎の職員室のすぐ入口に床板を切り抜き、自由に出入りされるようにしていた。私はここで命拾いをしたのである。

いよいよ敵機が頻繁に上空に来るようになった。 長崎は大きな造船所があるので狙われるとの情報があった。
学童にも防空壕の出入りや身を守る訓練をしたり、警戒警報が鳴ると学校から自宅に連れ帰ったりして、落ち着いて勉強も出来なくなった。そして学校は児童の登下校をしばらく休むことになった。
児童は自宅に待機したり、田舎のある人は子供だけ、もしくは家族みんなが疎開したりした。夜、屋内では上空に敵機が来ると電灯のまわりを黒い布で覆って、わずかな明るさで過ごした。
児童は登校しなくても職員は毎日小学校へ出勤した。

自宅にいて夜に警報が鳴ると一目散に走っ学校に行き、自分たちの学校を空襲から守るのだ…という意気込みだったことが今では滑稽とも懐かしいとも思える。
その頃、私たち学校職員は近くに田んぼを借りて米作りをした。職員を2班に分け田んぼの仕事をする組、学校を守る組と分かれていた。農家の人に教えてもらい素足で田んぼに入ると、ヒルという黒っぽい虫がいて、足首に縛りつき血を吸って離れない、その気持ちの悪かったことを思い出す。そんな思いをして米作りをしたのに1度も収穫することもなく8月9日の原爆投下となった。原爆なんてそのときに分かるはずはない。

母の『被爆体験記』より

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母の『被爆体験記』より

…8月9日 原爆落下…
原爆落下の日(昭和20年8月9日午前11時2分)
連日焼けつくような暑い日が続いていた。上空には銀色をした敵機B29型が午前中から飛んでいた。その頃は連日のようにB29が来ては空襲警報となり、少し遠のいたら警戒警報に切り替えられていた。
8月9日の日も警戒警報になっていた。家庭では昼食の準備でもしようかという時刻である。
私はその日は学校を守る組だった。上空に爆音がしたので、また来たなぁと思っていた瞬間、飛行機が急降下する音に変わった。私はこの音は敵機が爆弾を落とす音だと一瞬悟った。私は職員室の玄関で本を読んでいたが、異常な爆音とともに職員室の入口から防空壕の中へ飛び込んだ。壕の中は細長く背を屈めなければ立てないような作りだった。

壕の中で青い閃光がパッと光り、ドーンという音とともに、すごい砂ぼこりがして周り一面見えなくなった。防空頭巾1つ持って壕の中から職員室に出てみた。他の職員は2階にいて窓ガラスの破片で顔や手などに負傷していたが、コンクリート校舎だからそれほどひどい怪我ではなかった。私は幸い怪我もしていなかった。広島県に新型爆弾が落とされたとの噂は流れていたが、これが原爆だなんて全く知らなかった。



…目に焼きつく惨状…
さて、何事が起きたのかと思い学校の外に出てみた。そこは一般の道路だったので人がどこからともなく続々と歩いて来る。誰もかれもが髪を振り乱し、衣類は焼けてだらりと下がったまま歩いて来る人、身体のあちこちから血を流して、ふらふらと歩いて来る人、いったい何事が起こったのか分からなかった。

私の家は浦上駅から山王神社の中ほどに位置する岩川町だった。これは相当にひどい空襲を受けたのだなぁと思った。自分の家が気になり人に聞くと、浦上方面はひどくやられているから行けないとのことだった。なんとなく後ろ髪を引かれる思いで浦上とは反対へと進むことにした。
途中の木造住宅はほとんど全半壊していて、道路もふさがり歩きにくかった。同じ学校の先輩がいて下さり、少し離れた諏訪神社近くの大きな防空壕に逃げようと言って連れていって下さった。行ってみるとそこには何人もの人が避難していた。壕の屋根はコンクリートで固められた立派なものだった。そこへも沢山の人が集まって来ていた。なかには怪我をして血を流している人もいて、傷を括る包帯もなくてワイシャツを裂いて括っていた。

時間が経つにつれてここも危険だと言い、長崎から離れた方が良いだろうということになった。先輩と女2人連れで出発することにした。
もう夕方近くであったが遠い矢上まで逃げようと話して近道のトンネルに入った。現在のように車が多いわけではなく、何もかも辛抱することに馴れていたので、とにかく歩き矢上小学校に身を寄せることにした。矢上の人達から夕食をご馳走になりほっとした。他にも仲間の人がいて長崎の様子を話してくれて、9日の夜に長崎の町半分は焼けてしまったとの話も出ていた。

“邁進”そして沢山の笑顔に感謝です!

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“邁進”そして、沢山の笑顔に感謝!!


ハウステンボス歌劇団さんの、伊織はやと様率いるチームフラワーの公演『BIG WAVE』…
いっぱい、いっぱい応援してきた公演でしたが、19日が千秋楽でした!!


そして昨日、23日は新しい公演“LIE & TRUTH”~孤高の花~の初日でした!!

偉大なる王様シーク・ザハラを演じておられる伊織様が、ご自身のブログで“新境地”っとおっしゃるように、またまた新しい伊織様のお姿を魅させて頂きました☆
日々邁進されるハウステンボス歌劇団さんの公演に感謝です☆



19日『BIG WAVE』千秋楽の日の伊織様の笑顔がとっても素敵でしたので、載せさせていただきます!(お友達に撮影して頂きました)









『BIG WAVE』公演の主人公“JIN”から






そして、新公演の主人公“ザハラ王様”へ



日々挑戦し続けるハウステンボス歌劇団さんの公演に、沢山のお客様が感動を頂いています!!

23日初日、出待ちでの伊織様のほんのひと言…
「やっと、幕が開きました」のお言葉に沢山のいろいろな想いが詰まっていらっしゃるんだろうなぁと感じました☆





母の 『被爆体験記』より

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母の『被爆体験記』より

…肉親を捜して…

私の父は長崎市内の三菱兵器工場で働いていた。被害がひどいとの人の話を聞き、父も死んでいるかもしれない、お骨を拾って小浜に疎開している母や弟たちのところへ帰らなければという責任を感じていた。

先輩の先生に別れを告げ長崎へ引き返した。途中、勤務している銭座小学校に立ち寄ってみると、コンクリート校舎の床は全部焼け落ち、鉄筋の柱や屋根などコンクリートの部分だけが残っていた。学校がこんな姿にと思い愕然とした。校長先生も来ておられ「家族はみんな死んで、ひとりになったよ」と言われた。なんとも慰めの言葉もなかった。

被爆地にはもう既に県下の応援の人々が集まり、焼け跡の整理が始まっていた。道路近くには牛や馬の死体が転がっていたり、人体の焼ける独特の臭気が鼻にくる。目を覆い鼻をつまみながら歩いた。防空壕には生き残った人達が集まり、歪んだ鍋や鉄かぶとなどを持ち寄り南瓜を煮てくれるので、何処に行っても有り難かった。



その夜の長かったこと。負傷者の人達の痛みの声が耳につき、ほとんど眠れなかった。夜が明けるのを待ち外へ出て驚いた。辺り一面焼け野原、はるか先まで一軒の家もなく全体が灰色だった。一夜にしてこんな惨状になっていようとは、そして一瞬にして何万という人の命を奪った爆弾とは…。
大木が焼け倒され鉄筋は折れ曲がり奇妙な姿があちこちむき出しで、なんとも言えない虚しさだった。

8月10日、その日は父を探し歩いた。兵器工場には父の消息を聞ける人もなく、工場前で同じ町内の小学校3年生の子供に会った。「母ちゃんは死んだと。」と悲しそうに言っていた。兄ちゃんを捜しに来たらしいが、その子も被爆して頭が腫れていた。後になって聞いたが間もなく亡くなったということだった。実家に疎開して助かった私の弟の親友だったのに…。

兵器工場のケガ人は道ノ尾に運ばれたとの話を聞き出かけた。広い板の間に多くの人達が寝かされていたけれど、薬もなく医師や看護士もいない状態だった。部屋の中にもケガ人名簿にも父は見つからず見当がつかなかった。仕方なく長崎へ引き返した。

道では大勢の人達が働いていた。散乱した物を片付ける人、肉親を捜し求めて行き交う人、ケガ人をリヤカーで連れている人。ある場所には死体が寄せられ、大きい材木を積み上げた上に死体を載せ、いわゆる臨時の火葬場があちこちに出来ていた。
死亡しても身元が分からない人がたくさんいたので仕方のないことだった。真夏の暑い日であるから、なおさら早く処理しなければ、どう仕様もなかった。肉親を捜し出せない人も多く、骨だけでも分けてもらう人も多かった。爆心地の近くに住んでいて屋外で被爆した人は一瞬にして吹き飛ばされ、人間の姿形もなくなったという人も多かった。
道端に簡単な机を出して、あちこちにおにぎりが出されていたが、あまり食べる気も起きなかった。

途中、私がいた小学校の女の先生宅に寄った。その先生は学校の田んぼで被爆し大やけどをして、学校に運ばれたが亡くなったとお父さんから聞いた。若くてまだお嫁入り前の娘さんだったのに、お父さんが辛そうだった。後で分かったが、田んぼで被爆した職員の中でも何人も亡くなったり、大やけどをした人がいた。
実家へ帰ることに決めたが、長崎の上空にはまだまだ敵機の爆音がしてくる。どこまで苦しめればいいのだろうかと心の底から思った。着の身着のまま頭巾を持って長崎を出発した。

母の『被爆体験記』より

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母の『被爆体験記』より

当時は長崎駅や浦上駅から私の郷里方面に向かう汽車があったけれど、いつ乗れるか分からない状態だったので、歩くのが間違いないだろうと思いながら歩いた。時計もないので何時だったかはっきりしないが昼を過ぎていただろう。長崎のはずれの日見トンネルを抜けて、昨夜お世話になった小学校の辺りを過ぎると家もなく淋しい場所が続く。荷車に焼け残りか家財道具を積んで運ぶ組が何組もあった。少々足の裏が痛くなった。



母から聞いていたことがあった。諫早に遠い親戚のおばさんがいるということを。私もよく知っていたので郷里の小浜まで歩けないときはそこにお世話になろうと思った。
そこの家は諫早の眼鏡橋の近くで家の前には川が流れていた。おばさんの家を尋ねあてて入ると、おばさんがびっくりして、「フジ子ちゃん、生きとったとね!」と迎えてくれた。その夜は久しぶりの食事とお風呂のご馳走になった。長崎の様子などを話し、父を捜して小浜に帰るのが遅くなったことなどを話した。その夜は何日ぶりかで布団に休ませてもらった。

諫早の方にも長崎からのケガ人が運ばれているらしいとのことで、翌日おばさんとその場所まで行ってみたが父の手がかりはなかった。これだけ捜したのだからもう思い残すことはないと思い、おばさんにお礼を言って諫早から小浜まで歩くことにした。
その後に諫早のおばさんとそのお婿さんは諫早大水害で亡くなられたのである。ご恩もお返ししてなかったのに。

午前中に発って愛野まで歩いたら、道路脇の少し広い場所に見知らぬ人達が集まっている。その中には小型トラックを運転しているおじさんが小浜まで行くとのことで乗せてもらうことになり有難かった。ついに小浜までたどり着いた。8月12日の夕方であった。

私が捜していた父は長崎で私を捜しまわり、私より一日早く元気で帰っていたという。父がいた長崎の工場では柱の隙間で助かったらしい。頭や腕などにケガをしていたが元気だった。よその人たちは原爆の翌日からあちこちと帰って来るのに、私の帰りが遅いので、近所の人や親戚が集まって、「もう生きてはいないだろう」と話していたらしい。そこへ私がひょっこりケガもしないで帰ったので、みんなびっくりするやら泣いて喜んでくれるやらだった。母と妹は「明日は何としても長崎まで出かけて、私の骨を拾いに行こう」と言っていたとか。

父と私は、あの凄い空襲を受けながら被爆の中からよくも這い上がり得たと、つくづく思わずにはいられない。空襲のとき場所によっては外傷もなく元気そうに見えた人達が、後で脱毛、下痢、嘔吐などの症状を起こして亡くなった人も多かった。戦地に行っていた兄と弟も終戦後に復員してきた。

長崎の住んでた家は父が買い求めてから長くは住んでいなかった。家と家財道具は灰になったが、そんなことは年月が過ぎると忘れられる。戦死したり爆死したりした、その遺族は一生忘れられるものではない。

楽しい〜“ゆかた着付け”

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楽しい〜“ゆかた着付け”

いつもブログにきて頂いている方のご要望があり(ありがとうございます!)、ゆかたの帯を載せますね。

昨日、花火大会にお出かけのお嬢さんたちに、ゆかた着付けをしました。優しい雰囲気のお嬢さん方が多くて、私も楽しい着付けでした。


可愛ぃ〜くして下さい♪…の方



しっとり系でお願いします!…の方





お友達が着付けしてくれるって言ってくれたのですが、やっぱりプロの方にお願いしたくって、お友達を振り切って来ちゃいました(笑)…の方



おばあちゃんが縫ってくれたゆかたなんですよ!…の方



我が家に来ている弟子にも、弟子の勉強のために新バージョンを毎年着付けしています!!



勉強さらに勉強☆
ゆかた着付けに締める帯を半幅帯と言いますが、帯結びの基本はこの半幅帯です。半幅帯で出来る結びは、名古屋帯でも、袋帯でも結ぶことが出来るんですよ!!








美しいもの大好き!

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美しいもの大好き!


夏の季節は、ブライダル業界では結婚式の数自体が少なくなるため、何もしないでいると美容の技術力はちっとも向上しないまま…秋のブライダルシーズンに突入〜なんてことにもなりかねないのです。

そこで、私たち技術者の気持ちが緩まないように、大先生方が毎年恒例の夏講習会を開いて下さいます。美しいもの大好きな私は毎年出かけては「勉強しなくっちゃぁ〜!」と自分に気合いを入れて来ます!!


昨日は九州の大先生方が一堂に会して、沢山の技術を発表して下さいました。


私の恩師の先生もお元気に活躍なさっています!!


恩師は毎年、新しく考案した帯結びを着付け専門誌に載せていらっしゃるんですよ♪♪
今年の先生の帯結びです!



その他の先生方の新しい帯結びの数々


















(着物が大好きな技術者ばかりの集まりなので、写真も撮るのもひと苦労なんです)



豪華な花魁の着付け方もあり、講習会がいちだんと華やぎました。



ブライダル用のドレスも…



秋のブライダルシーズンに向けて、夏こそ勉強です☆☆

『LIE & TRUTH ~孤高の花』

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『LIE & TRUTH ~孤高の花~』

ハウステンボス歌劇団 チーム フラワー新公演『LIE & TRUTH ~孤高の花~』




アジアンテイスト溢れる宮殿に渦巻く虚構と真実、夢うつつが降りかかる王さまシーク・ザハラ。心優しき王さまが故に誰も信じられなくなる。



そんなザハラ王さまの前に現れた、純真な歌姫ジャミールによって、ザハラ王さまの心はしばし癒されるのであるが…




あぁ〜切ない、切なすぎるザハラ王さまの物語です。観るたびにこちらの心が締めつけられるようで、なんとも私は胸が苦しくなり、拍手するのも毎回遅れるくらいなのですが、それだけ美しくて素敵なシーンの数々が繰り広げられるのです。

チーム フラワートップ男役の伊織はやと様演じるシーク・ザハラ王さまの歌とダンスはもちろんのこと、それ以前の立ち姿の美しいこと!!☆☆☆
私は観させて頂くたびに、更に深みを増していらっしゃる伊織様の美しさに魅了されています。


ただただ命をかけて、ずっとザハラ王さまを慕いお守りしてきた家臣ハックが、「出かける!!」と言ってそでに引く王さまを追って、「ザハラさま〜!! ザハラさま!!」と言うところでは、私も「ザハラさま〜〜!!」と言って、ハックと一緒に王さまに着いて行きたくなってしまいます(笑)。




そして、そして、公演の中盤からはガラリと衣装が変わって、ロック調の曲に合わせた伊織様のダンスになり、お客さんは♪♡うぅ〜〜〜っとり、♪♪ワクワク♡♡♡、一瞬も、ひとッ振りも見逃すまいと眼を見張ってしまいます!
黒のジャケット姿でポーズをガッと決めて、クルクルッと回って…そして最後の笑顔なしの決めボーズがメチャクチャかっこ良い〜〜☆♪☆♪ときどき伊織様の“ウィンク”がバシッと飛んで来るのです✌あぁ〜このダンスをずぅ〜っと観ていたい!!やっぱりスター☆トップさんだなぁ〜と思ってしまいます。


チーム フラワーの魅力的な男役さん方と、女役トップの深佳さえさん率いる可愛く素敵な女役さん方にガッチリ支えられて、今日も伊織様がステージで舞い歌い、お客様と私たちファンの心を愛と元気で満たしてくださいます。





公演のいちばん最後の歌の歌詞が、未来を感じて明るくなるので大好きです♪♪

もう一度 未来だけ見つめて

ただ信じることから始めよう

もう一度 この両手で強く

愛を抱きしめて あなたと

生きて行こう もう一度


*写真は公演ブロマイドより、歌の歌詞は伊織様のご了解を頂いて載せさせていただきました。

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